![]() by watachanpeace カテゴリ
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ボクの愛用(?)する相鉄バス会社では、「ほほえみ会員証」というのを販売しています。この「会員証」というのは、これを持っていれば、相鉄バス全線1回の乗車につき、ワンコイン(100円)を支払えばよいというもの。ただし、65歳以上の人が対象なのです。そういえば、昔、美濃部さんのおかげで、都バスや都電が無料という時代もありましたね。
5,000円を支払って「会員証」を購入すると、最大6カ月間(今回は11月30日まで有効)、使えるというのです。最近になってこの「会員証」の存在を知り、これを活用しない手はないだろうと考え、先月中旬頃、定期券販売窓口で購入しようとしました。申込書を書いて窓口に出したら、駅員さんが「次は5月21日に発売されるから、それを買った方が断然お得ですよ」と教えてくれたのです。高齢者にやさしい駅員さん、ありがとう! ということで、5月の発売を待って、このたび、「ほほえみ会員証」を購入し、ニコリとほほえんだ次第なのです。 我が家は駅から歩くと、1時間近くかかる「僻地」にあります(笑)。よって、最寄駅に出るためには、相鉄バスさんのお世話になっております。片道250円、したがって往復で500円もかかります(だからパスモがすぐなくなります)。それが往復200円で済みますから、300円トクすることになります。 ボクの場合、週に3回は外出しなければならないので、1週間でバス代が1,500円。それが600円でOKとなります。月4週で計算すると、6,000円もかかるところが実際には2,400円で済みますから3,600円のトクになります。このようにして、あれこれと「捕らぬ狸の皮算用」をしてみました。すると、ボクの場合、週3回の往復で計算すると、5,000円の「会員証」購入費を差し引いても、半年間で16,600円もトクすることがわかりました。これはかなり大きいですよね。 これを活用すれば、駅までひとりでバスに乗り、買い物や映画(シニア料金だと1,000円だが、これがほとんど活用できていない)を見に行くこともできます。ところで、このカード(カードといってもただの紙製)ですが、「再発行不可」となっています(当然ですけどね)ので、半年間、なくさないようにすることが最大の課題です。大丈夫かなあ? もう5日も経ってしまいましたが、15日は沖縄の本土復帰40年の日にあたりました。本来はその日の前後にアップする予定稿でしたが、アップアップ状態で、今日まで来てしまいました。17日(木)から18日(金)にかけては久しぶりに「カンテツ」をし、さらにその前日は3時間しか眠れないなど、生活は相変わらず乱れきっていたからです。
5.15といえば、真っ先に「5.15事件」(1932年の犬養毅首相暗殺事件)を思い出します。今年はこの事件からちょうど80年。ということは、事件から40年目に沖縄返還(72年)があり、それからまた40年経ったということになります。5.15よりも1週間前あたりから、沖縄関係のテレビ番組がいくつかあったので、それらはできるだけ見るように心がけました。 当ブログでは2008年以来、ほぼ毎年沖縄の「5.15」について取り上げてきました。沖縄を第3の故郷(参考までに第1は横浜、第2が新潟)と考えるボクとしては、避けて通ることが出来ないテーマだからです。とは言っても、毎年書いていれば、きっと同じような内容になっていると思います。「繰り返しが多い」のは年をとった証拠ですが、その場合は、どうかお許しを。 沖縄といえば、70年前後に「沖縄を返せ」という歌を何度も歌いながら、デモ行進などをしたことを思い出します。新宿のうたごえの店「ともしび」でも行くたびに、よくリクエストし、歌いました。その歌詞を書いてみましょう。 「かたき土を破りて 民族の怒りに 燃ゆる島 沖縄よ 我らと我らの 祖先が 血と汗をもて 守りそだてた 沖縄よ 我らは叫ぶ 沖縄よ 我らのものだ 沖縄は 沖縄を返せ 沖縄を返せ」 近年は最後のフレーズを、「沖縄を返せ 沖縄に返せ」と「を」を「に」と言い換えて歌うこともあります。「ともしび」の歌集によれば、全司法福岡高裁支部作詞となっています。作曲は荒木栄とあります。この人は、これまた知る人ぞ知るですが、「仲間のうた」「心はいつも夜明けだ」さらには「がんばろう」を作曲した人です。「がんばろう」はこれも昔、メーデーのときのデモ行進の際、「がんばろう」などのいわゆる労働歌を歌いながら歩きました。「がんばろう」は、三井三池闘争のなかで生まれた歌で、作曲家の荒木さんもここの炭鉱労働者の1人だったとのことです。 ボクの敬愛する先輩が、5.15に向けて取り組まれている沖縄の「平和行進」に参加すると聞きました。沖縄ではすでに梅雨入りしているので、雨に濡れての行進にならなければよいのですが…。その後、お会いしておりませんが、お目にかかった時には沖縄の印象を聞いてみたいと思っています。たいへんお疲れ様でした。 4連休の初日にゲラが届きました。なんというG・T・オー!グッド・タイミングなのでしょうか? 約100ページ余ある冊子の初校です。以前、1日100ページという過密スケジュールによる4日連続の校正(厚生)活動という自己記録があります。今回については、「1日50ページで2日間」との皮算用で、4連休の2日目から取り組みました。
今年に入ってから、あちらこちらから校正を頼まれる機会があり、お陰様で「校正マン」として鍛えられております(涙)。たまにしかやらないと、どうも能力(校正の場合、間違いを発見する能力)が鈍るようで、回数が増えるとそれなりに「見る目」がアップするように思います。日頃からの校正訓練が必要なのですね。 最近の校正スタイルは、原稿との突合せはなく、ゲラの字面を追っていくというものです。かえってこうした手法の方が、間違いを発見しやすいように思えますが、果たして…。ただし、元原稿がないので、改行の箇所がわからず、悩みながら、当方で改行マークを入れることもあります。入稿を電子データで行う場合、テキスト形式にすることが多いので、その場合、どこで改行したらよいか、わかりずらいという問題点があります。 自称「校正マン」としてホンネを言えば、校正活動というには、訂正箇所が1カ所もないのはおもしろくありません。いくらかでも「間違い」(最近は変換ミスがほとんど)を発見し、赤ペンを入れると“やりがい”を感じるのです。「間違い、見つけた!」と叫びたい心境になります。 校正というのは、「ミスゼロ」が当たり前ですから、たえず「ゼロ」をめざしています。最近、学校で広がっている「ゼロ・トレランス」と同じです。多少のミスはやむを得ないと寛容であってくれるとよいのですが、そうは問屋が卸さないのですね。ですから、1カ所でも「校正ミス」があれば、すべては水の泡です。「どうして発見できなかったのか」「なぜ気がつかなかったのか」自分の至らなさを責めます。 「失敗は成功のもと」とは言い古されたことばですが、失敗ばかりで成功(校正ミスがゼロ)が続かないと、自己嫌悪に陥ります。仮に今回は成功したとしても、次回はわかりません。ですからいつも、真剣勝負、進研ゼミ(笑)、です。 「とまりのゲンパツがとまりました!」―このようなフレーズなら、誰でも考えますので、面白くもなんともありません。それを承知でわざわざ書くのは、「汗しらず」じゃない「恥知らず(無恥)」と言われても反論のしようもありません。ですが、まあまあ「全原発停止記念日」に免じて、お許しを!
周知のように、5月5日深夜、泊原発3号機が定期点検(定検)のため、運転停止をしたことによって、全国に50基あるすべての原発がストップしました。このことは、42年ぶりのことだそうで、新聞などによれば、1970年4月30日から5月4日まで、当時稼働していた2基の原発(東海村と敦賀原発1号機)が停止して以来、とのことです。 42年ぶりといえば、ボクがめでたくも(奇跡的にも!)、教員になった時以来ということになりますが、恥ずかしながら原発停止など全く記憶にありません。それどころか、「あしたの授業」が「停止」とならないよう、恐らく必死で「教材研究」などをしていた時期と思われます。担当科目は、日本史と倫理社会でした。今は倫理ですが、当時は倫理社会と呼ばれ、「社会」がつきました。略して倫社。 当時の手帳を引っ張り出してみると、4月29日の「誕生日」(祝日)は水曜日だったということがわかりました。「稲を水田にウエンズデー」です。ストップした30日は木曜日、つまりは制御棒をサースデーというわけですね(笑)。憲法記念日の3日はあいにくの日曜日。当時は振り替え休日などなかったので、4日の月曜日は出勤(もちろん2日の土曜日も授業があり、出勤)。2基しかなかった原発は、この日までストップしていたことになります。そして翌5日のこどもの日から、また運転を再開しました。わずか5日間の「お休み」でした。 政府は1日も早く、大飯原発3号機と4号機の再稼働をしようとしていますが、「おおい、いい加減にしろ!」と怒りたくなります。原発の真下に活断層があると言われていても、それでも政府や関西電力は、電力不足だからと言って動かそうとしています。フクシマの教訓をどう考えているのでしょうか。いや、まったく考えていないのでしょうね。そう言わざるをえませんね。原子力の平和利用と言われてきましたが、これはまさしく幻想だったと知るべきでしょう。
昨日から、「風薫る」と形容される5月になりました。1日はメーデー。がしかし、前倒しで、4月28日に実施した労働団体もありました。1日が平日なので、参加(動員)しづらいだろうと配慮し、土曜の28日にしたようです。来年は?とカレンダーを見たら、27日が土曜日でした。来年のメーデーはこの日に開催するのでしょうか。
同じく1日は、八十八夜でもありました。通常だと、2日のはずですが、今年は閏年でもあったので、メーデーと八十八夜が重なったのです。 5月になったということは、3月末で退職された方々にとっては、「1カ月が経過した」ことになります。退職後も再任用をされる方々も多いと聞きますが、そうした方々はホッと息つく暇もなく、新しい職場で再スタートを切り、ようやくにして4月を終えたことになります。お疲れ様です。 4月中に何枚かの退職挨拶状が届きました。5年前、ボクが挨拶状を送ったのは6月中旬(しかも時期を2回に分けて投函)でしたから、4月中に出される律儀な方々には尊敬してしまいます。古い友人からの挨拶状の文面には、昨年末から退職直前の3月まで、入院を余儀なくされていたと書かれてありました。長年の無理がたたって、体調を崩されたのではないかと推測していますが、気掛かりです。 「わたちゃんねる」と改題し、4月11日に再出発をした当ブログも、4月中は週イチのペースをなんとかキープし、4回の更新を果すことができました。5月以降もこのペースをできるだけ維持しながら、当面の目標であるところの800号にたどり着きたいと考えています。 最後に、ブログ作成の舞台裏を少しばかり…。これは最近の傾向なのですが、外出した際のバスあるいは電車内で、小さな雑記帳にブログの下書き原稿を綴るようにしています。こうして原稿が早々と出来上がっていても、その後、ブログにアップする余裕がなく、文字通りアップアップの毎日を過ごしています(オチもついたので、今回はこのへんで…)。 カレンダーを見て、愕然としました。4月は明日でおしまい。つまりは、1年の3分の1が終るということです。ため息が出てしまいます。
昨日の28日(昔、この日は「沖縄デー」と呼ばれ、「沖縄を返せ!」などという歌を歌ったな)から、「大型連休」(GW)が始まりました。1日と2日を休めば、9連休になるそうです。だから昔からボクは言っているのですが、5月1日を「祝日」(この日を「みどりの日」にしてもよかったのに、4日にしたのがよくわからない)にすれば、少なくとも4月29日(「昭和の日」)から5月5日(こどもの日)までの7連休(最大9連休)が実現するのだと。 この4カ月間を振り返ると、1月の忙しさが特筆されそうです。正月の2日から寒いところで仕事をしたため、体調を崩し、それでも予定を変更できず、その後もイロイロ。その結果、ヘロヘロ状態で沖縄へ(宿泊は宜野湾市内に出来た、比較的新しいホテルの3連泊)。 沖縄では雨にこそ見舞われませんでしたが、どんよりした毎日。でも今回初めて、残波岬にある灯台まで足を延ばしました。岬の入り口にあるホテルには宿泊したことがありました(修学旅行時には、ここで昼食をとったこともあった)が、灯台は初体験(時間が遅かったので、上ることが出来ず残念!)。そのあと、もう暗くなっていましたが、チビチリガマ、さらには嘉手納基地展望台(道の駅)へも。 翌日は、アウトレットに行きたいとの家族の要望も満たし、そのあと、牧志の公設市場前に開店してまもない古書店を訪ねました。せっかくなので、記念に数冊、古書を購入しました。ここの店主さん、神奈川の県立高校出身ということがわかり、ビックリでした。 木曜の最終便で出発、日曜の夜、羽田着という相変わらずのハードな日程で、翌月曜日からフル回転。徹夜も2日ほど続き、またもやヘロヘロ状態。にもかかわらず、2月の第2週まではエンジン全開、チョー多忙な毎日の連続でした。仕事や原稿などの「締切日」に追われ、ヒヤヒヤ&ドキドキ、縄文土器でした。でも、かろうじて…。 「無理」はそう長続きはしないものです。案の定、誕生日ショックの後、バーンと爆発、アウトとなりました。その結果、「休眠宣言」を出すことになりました。 昨日、サラリーマン川柳を見ましたが、その第1位は「『宝くじ 当たれば辞める』が 合言葉」だったそうです。短歌は無理なので、川柳の創作でも始めようかな?なんて、最近、思っているところですが、果たして…。 前号でも書きましたが、Aさんとはたった1年間だけしか同じクラスではありませんでした。50年以上も昔の話ですから、記憶はまったくありませんが、ときにはライバル意識をもってベンキョーに取り組みました。
入学してまもないある時、階段で滑ったかどうか、原因は忘れましたが、Aさんが足を骨折してしまいました。その時、ボクは彼の自宅にお見舞いに行きました。1人で行ったのか、それとも友だちと一緒だったか、覚えていません。 ただいまだに鮮明に覚えているのは、マンガ週刊誌である『少年サンデー』の最新号を買って、差し入れをしたことです。『少年サンデー』は1959(昭和34)年3月17日に創刊号が出されていますので、発刊されてまだ、まもない頃ということになります。サンデーは当時、1冊30円だったようです(『少年マガジン』は40円)。このサンデーのことは、30数年前に会ったときにAさんから話が出てきました。印象深いできごとだったようです。 夫人の話によると、Aさんの死は突然だったようで、「いまだに信じられない」と言っていました。退職後に受診したX線撮影で「肺に影がある」と言われ、精密検査をしたところ、中皮腫ということが判明したとのこと。X線といえば、在職中にも毎年のようにやっていたはずですが、そのときには発見されなかったようです。医者の見落としかも知れません。彼は若い頃、横浜港の荷役作業に関わるしごとをしていたことから、ここでアスベストを吸っていたのではないかと思われます。 Aさん宅への弔問に付き合ってくれた、同じ市内に住むBさんがAさんの死を知ったのは葬儀が終わった後でした。というのは、5月に開催するクラス会の案内がAさん宅に届き、それを見たAさんの夫人が、クラス会幹事に「実は夫が…」と電話を掛けてきたとのことでした。Aさんはこのクラス会を楽しみにしていたようですが、それに参加する直前に亡くなっていたのです。 ボクも春休みに入った頃、電話をして会おうと密かに考えていました。ああ、それなのに。無念です。 51日間に及ぶ休眠中に、中学校時代の同級生Aさんの訃報が届きました。休眠中に届いた訃報ということもあって、とても大きなショックを受けました。
同級生といっても、中学1年時だけのたった1年間の友人です。高校も別々でしたから、中学を卒業してからは、ボクの記憶では3回くらいしか会っていません。毎年、年賀状のやりとりはしていました。今年も版画による年賀状が来ていました。 連絡をくれたのは、同じクラスメートだったBさん。Bさんも中1の時だけの同級生ですが、彼とは卒業以来、一度も会ったことはありませんが、年賀状の交換だけは続いていました。同じ小田急線の沿線に住んでいるということもあって、「いつか会いましょう」ということだったのですが、実現をしないまま、ここまで来てしまいました。 そのBさんからの初めてのメールが、Aさんの訃報を伝えるものでした。すでに葬儀は終わっていたので、ボクはすぐに、「Aさんの家に伺いたい」と返信しました。BさんがAさん宅に連絡を入れてくれたので、3月末の土曜日の午後、2人で弔問に伺いました。Bさんと会うのは、中学卒業以来、ちょうど50年ぶりです。 Aさんに最後に会ったのは10数年前、確か伊勢原の文化会館であったかと記憶しています。その時とほとんど変わらない遺影が祭壇に飾られてありました。Aさんの夫人に会うのは初めてでした。 中学卒業後、Aさんと最初に会ったのはちょうど35年前になります。たまたまボクの名前が「毎日新聞」の地域版に掲載されたのをAさんが見て、ボクの自宅に電話をしてきました。それで横浜駅で待ち合わせをして会いました。彼は小田急沿線の中学校で、社会科の教員をしていました。当時、ボクは定時制高校に勤務していましたが、同業であることが新聞記事から判明し、電話をしてくれたのだと思います。 確か当時は千葉県に住んでいて、そこから厚木よりもさらに奥にある学校まで3時間近くかけて、通っているとのことでした。横浜港の荷役作業をする傍ら、大学の二部に通い、さらに卒業後、教員養成所に通い、教員免許を取得したとの話でした。彼の働きぶりは今で言えば、「県央の金八先生」と言ってもいいほどでした。当時はまだ「金八」は放送されていませんでしたが、悪がきたちと格闘する姿はまさしく「金八」風でした。(つづく)
2月19日発信の787号以来、51日間“休眠”していました。休眠中に永眠するかもしれないとの思いに何度か襲われました。ややオーバーかもしれませんが、これまでのわが人生において、最大のピンチといってもよいと思われます。
今、ボクは、暗くて長いトンネルの中にひとりで立っています。トンネルの先に見える光は、豆粒くらいの大きさに過ぎません。小さくても、「光が見えるだけでもよし」として、少しでも1歩でも、前に進み、トンネルから脱しなければなりません。 医師の診断によれば、「左鎖骨骨折、全治2~3カ月」(3月末の話)とのことです。まもなく事故(事変)後2カ月となりますが、まだ左手では重い荷物は持てませんし、衣服の着脱にも苦労しています。最近ではPCを使っても、左肩が重たくなり、張りを感じることが少なくなりましたが、時々、チクチクするような痛みが出てくることがあります。いのちはつながりましたが、骨の方はまだつながっていないようです。 今回のできごとは、恥ずべき大失態であり、不祥事でもありましょう。同情はまったく無用です。事変は、自分の能力を知らず、それを超えて、いろいろなことをやり続けてきたボクの欺瞞に対する、「天罰」「天誅」ではないかと思っています。自分の至らなさ、能力不足と思慮のなさを十分に自覚して、コトに当たらねばならないのです。背伸びをしてはゼッタイにいけないのです。身の丈で生きること、このことを今回、十分に思い知りました。 今回の事変後、何人かの友人・知人から、「無理をしないように」とのアドバイスをいただきました。能力不足をごまかし、カバーするために無理を重ね、無理による負荷がカラダとこころを「自壊」していました。このことをボクは改めて「自戒」しました。能力に応じ、年齢相応の動きとしごとをするよう、構造改革を図らねばならないと強く思っています。無理はできないのです。無理は無理です。 前期高齢者になったということは、カンレキとコキ(古希)の中間地点に立ったということです。コキまで生き延びられるかどうか、まったくわかりませんが、1年、3年…と少しずつ先延ばしにしながら、一方では「旅立ち」の身辺整理も並行して進めていこうと考えています。今回の事変ではみごとに「墓穴」を掘りましたが、焦らず、急かされず、文字通り、ボチボチ(墓地)とやるしかないのでしょう。 今回が再出発となりますので、思い切ってブログ名を変更し、「わたちゃんねる」としました。「話(輪)多・チャンネル」とも読めますし、「わたちゃん眠(ねむ)る」との解釈も可能です。当面は週に1~2回程度の更新を目標に、ボチボチやってみることにします。ようやく少しだけ自身の力で立ち上がることができました。 恥さらしの駄文ではありますが、ご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。
気が付いたら、2月11日以来、8日ぶりです。12日以降、PC(パソコン)が不調で頭を悩ませていたところ、今度はパーソン(人間)が不具合を起こし、店頭で転倒し、「骨折り損のくたびれ儲け」の有様で、しばらくは「謹慎&蟄居」です。
「わたちゃん」第3章は、これにて「終演」で、今度登場の節は「最終章」になると思います。ご心配は無用。必ずや「再チャレンジ」する時は来ると思います。それまで、しばらく、ムバラク、サラバ砂漠。 おかげさまで、2月18日(多分!)に「2万アクセス」をカウントしました。皆様方のおかげです。多謝。
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