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■ 4年に1回の日
今年はうるう年だから、2月が29日まであります。NHKラジオを昼間聴いていますが、「この4年間に起きたこと、変わったこと」というコーナーを設け、視聴者からFAX投稿を呼びかけていました。そのなかに、「4年間で子どもが3人生まれた!」というのがありました。エライ! 自分の場合はどうか?を振り返ってみたら、A高校で卒業生を出し、B高校に転勤した年でした。ですから、その時の卒業生で大学へ進んだ者は今春、就職。なかには、せっかく推薦で入ったのに、まもなく辞めてしまった者もいる、と風のたよりで聞きました。あの子、どうしているかな? 今だから言えることだが、あのときの卒業式後の「最期のHR」はホント、最悪でした。「ホトケのわたちゃん」(もうじき、ホントに仏になるかも)もさすがに切れそうになりましたが、「門出の卒業式に…」と思い、ぐっと飲み込みました。ボクにとっては、8回目で「最期の卒業生」だったのですが、ちょっぴり苦くて哀しい思い出の1つ。 さらに悔しかったのは、対面式の卒業式がオカミの意向で変更させられたこと。 ■ イマカラデモ、オソクナイ! 今朝のラジオで、「2.26事件」直後の1936年2月29日、「今からでも遅くないから原隊に帰れ!」との放送が出された(放送は午前8時55分)と言っていました。一時は軍同士が首都東京で銃撃戦をするのでは?と懸念されていましたが、この放送(戒厳司令部告諭)により、「反乱軍」はようやく原隊に戻り、事件が収束に向かったのです。 ボクなどは「今からでは遅い」部類に入っていますが、若い人たちにはさまざまな場面で「今からでも遅くない!」と叫びたい心境です。例によって、年表をながめていたら、この日、SLの「デゴイチ」(D51)の第1号(D5114)が完成とありました。D51は1945年までに1115両が量産されたとのことです。 ■ 1936年に起きたできごとを2つほど… 今年北京オリンピックですが、この年はベルリンオリンピック(第11回)が行われました。聖火リレーはこのときから始まりました。次の開催地は東京の予定でしたが、「2.26事件」の翌年、日中戦争(37年)に突入したことから中止となりました。 東京オリンピック中止の1940年は、以前に記した「紀元2600年式典」が華々しく行われた年でした。この奉祝行事のおかげ(恩赦)で「減刑」(懲役6年→5年)され、釈放された(41年5月17日)のが阿部定(あべ・さだ)です。この阿部定事件が起きたのも1936年だったのです(5月18日、当時32歳)。「怪奇殺人事件」とか「グロ犯罪」とか新聞には書きたてられたようですが、「心身耗弱状態での衝動的殺人」ということで、量刑が軽くなりました。 阿部定事件といっても、知らない人がほとんどでしょうけれど。 ■ 梅にウグイス
藤棚(横浜市西区)の丘に上がる坂道を歩いていたら、民家の軒先にある白梅の花が咲いているのを見つけました。よく見ると、その枝に鶯が止まっているではありませんか。「こんな街中でも、鶯がいるんだ!」とうれしくなりました。 梅に鶯といえば、「早春賦」という歌を思い出します。 ♪春は名のみの風の寒さや/谷のうぐいす歌はおもえど/時にあらずと声もたてず/時にあらずと声もたてず この作曲者は中田章です。同じく作曲家である中田喜直の父親です。 喜直の作った曲には「夏の思い出」「ちいさい秋みつけた」「雪の降る町を」などがありますが、生涯、「春の曲」は書かなかったと言われています。それは、父の「早春賦」があったからだそうです。 ■ ハクガのシウマイ 前号で崎陽軒のシウマイのことを書きました。たまたま駅で買った「神奈川新聞」(2月26日付)を見たら、「姿消す幻の味」との見出し(26面)で、博雅亭のシウマイが今月限りで製造中止になるとありました。「博雅のシウマイ」(ここでもシウマイと表記)は、古くから横浜にいる人には崎陽軒以上にシウマイの老舗です。 神奈川の記事によれば、博雅亭は1881(明治14)年創業で、99(明治32)年に伊勢佐木町(有隣堂並び)に進出、1913(大正2)年に「博雅亭のシウマイ」を完成させたと書いてありました。ということは、崎陽軒のシウマイよりもこちらの方が古く、しかもシウマイの材料に北海道産の乾燥貝柱を加えたというのも崎陽軒によく似ています。これは推測にすぎませんが、博雅亭を手本に崎陽軒のシウマイが作られたのかもしれません。ボクも昔、博雅のシウマイを食べたことがありますが、ここのはとてもビッグなのです(肉は相模産のピッグから)。 博雅亭は1980(昭和55)年、閉店しましたが、その商標権とレシピを受け継いだ横浜松坂屋の子会社が83年から製造を再開し、今日まで続いていたというのです。 話は変わりますが、横浜駅西口のはずれ(岡野町交差点手前、東急ハンズの裏手)に「博雅楼」という中華料理屋がありますが、ここの店主はかつて博雅亭で働いていたとのことです。これは何年か前、クラス会をここでやろうと予約に行った際、ボクが聞いた話です。 ■ シューマイではなく、シウマイ!
前号に引き続き、まずは「be」(2月23日付)の記事から。朝日購読者は承知のことと思いますが、「be」にはBusiness版とEntertainment版(いずれも8ページ)があります。前号は後者の記事の紹介でしたが、今回は前者から。 7ページ右下に「キミの名は」という連載がありますが、ボクのお気に入り記事の1つです。今回は「崎陽軒」でした。 崎陽軒といっても、神奈川ブランドの店なので、馴染みがうすいかもしれませんね。「シウマイの崎陽軒」です。いいですか?シウマイです。これは県人でも「シュウマイ」とか「シューマイ」とか書いたり、発音したりする人がいますが、崎陽軒はあえてシウマイと書きます。 ですからボクは昔から、シウマイはシ・ウマイで、文法的にいうと「シ」は強調の助詞だ、と言ってきました。 ■ シウマイができて80年 「be」によれば、崎陽とは長崎の別称で、長崎の出島に出入りした唐人の貿易商が出島近くの「太陽が昇る場所」を「崎陽岬」と呼んだことに由来する、とありました。創業者の久保久行が長崎出身であることから命名されたようです。この創業者、元は横浜駅長さんで、退職後、知人の東京駅長さんの取り計らいで、妻名義により横浜駅(今の桜木町)で店を始めたそうです(1908年4月)。今でいえば、天下りのようなものですが、妻名義にしたところが明治らしいかな。 この店では牛乳やサイダー・餅などを扱っており、シウマイ販売を始めたのはその20年後の28(昭和3)年から。ですから崎陽軒は、今年創業100年、シウマイ発売80周年(人間でいえば、傘寿)ということになりますね。某労働組合の昼食で「十八番」となっているシウマイ弁当の販売は、戦後の1954年から。 崎陽軒を一躍有名にした「シウマイ娘」の登場が50年8月15日。ちょうど戦後5年目です。今でも崎陽軒の販売員の制服になっていますが、チャイナドレス姿で、「シウマイはいかがですか?」と駅ホームで売ったことが評判を呼び、シウマイは横浜名物になりました(48年当時、12個入りシウマイが40円)。 ■ シウマイ弁当が食べたくなった 今、シウマイなどは港北インター近くにある工場で作っていますが、かつては横浜駅東口角に総ガラス張りのショップがあり、外からシウマイを手作りで作っている様子を眺めることができました。ボクも小中学生のころ、しばらく立ち止まって「見学」していたことがあります。 こんなことを書いていたら、シウマイ弁当を食べたくなりました。そういえば、しばらく食べていませんでしたねえ。1つ740円。 ■ あっそう!2.26事件が… 明日は2.26事件(1936年)の日。自民党元幹事長の麻生太郎氏の母親は、このとき文字通り九死に一生を得ました。湯河原の老舗旅館「伊藤屋」(当時は光風荘)で静養中、河野寿大尉らにより襲撃を受けたからです。護衛の警察官が殉職しましたが、麻生氏の母親らは難を逃れました(毎日08.2.23「近聞遠見」を参照)。 光風荘にいたのは、牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男)夫妻とその孫にあたる麻生氏の母親(当時20歳で独身)。旧姓吉田和子、すなわち吉田茂元首相の三女(吉田の妻は牧野の長女)。だから麻生氏は吉田首相の孫にあたります(周知のように、安倍元首相は岸信介元首相の孫)。ということは、入試に「もし」はあっても歴史に「もし」はないのですが、このとき母親が銃弾に倒れていたら、麻生太郎氏(1940.9.20生まれ=紀元2600年に生まれたわけ)は今、いないということです。あっそう!(また、使ってしまいました) これは日経の夕刊コラム(2.21)にありましたが、2月26日は元首相竹下登の誕生日でもあるとのことです。そのコラムには当時、「おしん、竹下、隆の里」ということばが流行りました。余計な昔話を思い出すのですが、ボクの学生時代の友人は、この竹下さんが仲人でした。 ■ 「be」を読んだら
朝日の土曜別刷りに「be」がありますが、23日付「愛の旅人」欄(「二人でかざす一筋の光」)を読み、半世紀前のことを思い出しました。なにせこの数年、最近のこと(とくに人の名前がすぐ出なかったり)はよく忘れるのですが、昔のことはよく覚えてたりするのです(笑…いや笑ってはいられないか)。 「二人で…」には、1957年に公開された映画「喜びも悲しみも幾歳月」(木下恵介監督)のモデルとなった、燈台守田中績(いさお)・きよさん夫妻のことが書かれてあったのです。この映画、当時小学校5年生だったと思うのですが、学校から映画館へ見に行ったのです。歩くと30分以上はかかったと思うのですが、ゾロゾロと歩いて映画館まで…。2時間40分の長編だったらしいですが、よくぞ寝ないで見たものです。この映画以外でも何回か、「映画鑑賞会」がありました(指導要領が「試案」と書かれていた時代でした)。 ♪オイラ岬の 灯台守は/妻と2人で 沖行く船の/無事を祈って 灯をかざす 灯をかざす♪(歌:若山彰)の歌は、いまでも、カラオケで歌おうと思えば歌えますよ。「be」によれば、田中さんは8ヵ所の灯台に勤務した(北はサハリン、南は五島列島の端の女島)とありましたが、映画では、新任地に行くシーンでこの曲が流れるのです。作詞作曲は監督の弟木下忠司で、撮影の1週間前に依頼されたとのエピソードも紹介されていました。 ■ 岬は三崎だと思っていた 先の歌の歌詞で「オイラ岬の」の「岬」は当時、三浦半島の「三崎」だと思っていました。5年生では「岬」という漢字は習いませんし。「灯台守」ということばも、はじめはよくわかりませんでした。 この映画は『婦人倶楽部』という雑誌に掲載された「海を守る夫とともに20年」という手記(1956年)を読み、感動した監督が映画化したとありました。 田中夫妻(映画では佐田啓二、高峰秀子が演じる)は定年後、いわき(福島)に住んでいたと書かれていました。塩屋埼灯台に勤務したとき、ここが一番暮らしやすかったからだそうです。子どもが10人(男7人、女3人)いて、「3人の娘はいずれも灯台と関係した人生を歩んだ」と記事にはありました。三女(1949年生まれ)は塩屋埼灯台に勤務(資料室受付係)しているとのことです。記事の欄外にもありましたが、塩屋埼は美空ひばり晩年の歌「みだれ髪」に出てきます。 ■ 57年には、ほかに何が? 1957(昭和32)年は、『人間の壁』(石川達三)のモデルとなった佐賀県教組の「三・三・四割休暇闘争」(2月14~16日)があった年です。 その年のはじめ、1月7日からラジオ東京(今のTBSラジオ)で連続ラジオドラマ「赤銅鈴之助」が始まりました。このとき、吉永小百合さんが一般公募で選ばれ、出演(たしか千葉周作の娘役だったと記憶)したのです(俳優の藤田弓子さんも、このとき出演していたことを最近知った)。これが吉永さんの芸能界デビュー作で、ボクは夕方(6時5分から20分間)になると、ラジオ(もちろん、真空管)の前にかじりついて聞いていました(以来、自称サユリスト)。 原作の漫画は雑誌『少年画報』に連載されていて、単行本にもなっていたので、それを全巻買い揃え、よく読んでいました。そうそう、ラジオドラマの語り手(今なら、ナレーターと呼ぶが)は山東昭子さん。国会議員さんに出世してしまいましたね。 「喜びも…」の何番かの歌詞に、「離れ小島に 南の風が 吹けば春来る…」との一節があります。昨日(23日)の強風は「春一番」だったそうですが、この時期が一番、春到来が待ち遠しい季節ですね。
■ 洗濯のあとは…
今日もいいお天気。風もなく、あたたか。こういう日はうれしいなあ。洗濯をしても気持ちよく、乾くからです。洗濯機が動いている間に、返信メールなどを何通か送り、そのあと、洗濯竿に洗濯物を干し、ボクの休憩時間。そこでブログの画面に向かっています。 こういう暢気なこと(ノーテンキではありません、よい天気です)を書くと、現役の人たちから怒られそうですが、許してちょうだい! そういえば、今日は入試の採点日。まさに労働者の祭典(採点)ですね。みすみす、ミスをしないよう、頑張ってください。 ■ 「母べぇ」を見に行った 悲願だった(といっても、彼岸はまだ先か?)映画「母べぇ」を妻と見に行きました。映画なんて1年ぶり以上かな? 評判どおり、なかなか重みのある映画でした。何気ない日常のなかに、戦争がズカズカと入り込んでくるところがよくわかりました。 さすが「君が代」は出てきませんでしたが、「天長節」や「明治節」の歌を児童・教員が揃って歌うシーンがありました。「紀元2600年」「贅沢は敵だ」、宮城遥拝など、当時の世相も出てきました(映画の描く時代は1940年から42年がメイン)。 父べぇ(野上滋=坂東三津五郎)は治安維持法違反で逮捕・拘束され、拷問を受け、拘置所で亡くなります(75年前の2月20日、小林多喜二が拷問により死去。29歳だった)。2人の娘(初べぇと照べぇ)を抱え、戦中・戦後を生き抜いた母べぇ(野上佳代=吉永小百合)が亡くなる間際の一言。「生きてるうちに父べぇに会いたかった!」 戦争が家族を引き裂き、多大な犠牲を強いたことを静かに告発していることばと思われました。 ■ 2月19日は忘れられない日となった 硫黄島上陸(45年)、天皇の全国巡幸(46年)が始まった19日明け方、イージス艦「あたご」と漁船との衝突事故が発生しました。福田首相はメルマガ(21日配信)で「国民を守るべき自衛隊が、このような事態にいたったことが悔やまれてならない」と述べたとのことですが、そもそも自衛隊(軍隊)は「国民を守るため」に存在するのではないことは、あの沖縄戦をみれば明らかなはずです。これからきっと、信じられないような自衛隊の偽装体質などがゾクゾクと明るみに出てくるでしょう。 あした23日は、さる高貴なご家族のご長男さんの48回目のお誕生日(1960年生まれ)です。「もっと何回も父上のところに顔出し(参内)するように」などと周囲から言われたりしておりますが、当日はどのようなおことばがあるでしょうか(こんなことを「母べぇ」の時代に書いたら、間違いなく…)。 そして何年後かには、この日が「国民の祝日」になります。休みが増えることは結構なことかも知れませんが、入学試験の日程などに影響が出てきそうですね。 ■ 2月19日、硫黄島への上陸作戦が始まった!
25号で1945年2月19日、米軍による硫黄島上陸作戦が始まったことを書きました。 ところで、その翌年の同じ日、何があったか、わかりますか? 「あっ、そう」という言葉を聞いて、すぐわかる人は今や少ないでしょう。元自民党幹事長(麻生太郎さん)? いや、違いますね。 「あっ、そう!」を連発したのは、昭和天皇です。その昭和天皇の巡幸(天皇の旅行。戦前は「行幸」と呼ばれ、小田急に並行して走る「町田厚木線」をいまでも「行幸道路」と地元では呼ぶ)が46年2月19日から始まりました。現人神から人間になった(同年1月1日にいわゆる「人間宣言」)天皇が、この日から足掛け8年(総日数約165日)、3.3万キロに及ぶ全国めぐりをしたのです。赤道の全周が約4万キロですので、その約4分の3を回ったことになりますから、すごいですよね。 ■ 巡幸最初の県は? 天皇が最初に訪れた県は、神奈川県(川崎)でした(19・20日)。お膝元の東京が最初かなと思いますが、そうではありませんでした。東京は神奈川のあとで、2月28日~3月1日でした。なぜ神奈川が最初だったのかは不明です。 年度別の府県別数を記すと次のようになります(重複あり)。 46年=9都県、47年=24府県、49年=7県、50年=5県、51年=4府県、54年=1道 48年と52・53年の訪問県はゼロ。48年は東京裁判の判決・A級戦犯らの死刑執行があった年、52年は対日講和条約発効の年です。48年が中止となったのは、スケジュールが強行すぎるなどとGHQから申し入れがあったからだそうです。 伊勢神宮のある三重県には51年11月20~24日(23日は戦前の「新嘗祭」)に訪問し、2年間のブランクのあとの54年8月8日~23日が北海道となりました。北海道が、「どう」して最後の地となったかもわかりません。ついでにふれると、この年の7月1日に自衛隊が発足しました。 当時、米軍の施政権下にあったことにもよりますが、最大の激戦地で多くの犠牲者を出した沖縄へは、昭和天皇はとうとう「巡幸」には行けないまま亡くなりました。 一方、天皇は52年7月31日(前日の30日が明治天皇の命日)、戦後はじめて「象徴天皇」として皇后とともに明治神宮に参拝し、さらに10月16日(秋季例大祭の前日)、靖国神社を参拝しました。 ■ 教え子をふたたび…
このスローガンは、過日、教研会場の使用を拒否された日教組が1951年1月の中央委員会で決めたものです。同年秋、日教組は第1回教育研究大会を日光で開催しました。全体会中止は、このとき以来の「汚点」と言えそうです。 先ほどあえて「秋」と書きましたが、正確には11月10日(土)。「歴史の偶然」と考えるべきでしょうが、この11月10日というのは、24号でもふれたように、大正・昭和2代の天皇が「即位の礼」をした日であり、なおかつ「紀元2600年」の式典が行われた日です。まあ、あまり深く考えすぎない方がいいのかも知れませんが。 この教研大会の第2回は53年1月に高知で開催され、以後はほぼ毎年、「1月開催」が定着しました。教研大会は第4次の長野大会(1955年)から、現在のような「教研集会」という呼称に統一されたのです。 今年で57次でしたが、なぜか神奈川では一度も開催されたことがありません。かつて神教組(小・中教組)は「日教組の御三家」と言われていたのに、どうしてなのでしょうか?因みに東京では今回を含め57回中8回、開催されています。 ■ 昨年が結成60周年だった 日教組は昨年、結成60周年を迎えました。結成大会(このときすでに、50万組織)は1947年6月8日(日)、奈良県橿原の建国会館野外講堂で開催されました。「建国会館」とあるように、橿原は神武天皇が「即位」したとされる地です。そんなゆかりのある(?)土地で、なぜ日教組は結成大会をもったのでしょうか? 一説には「奈良が戦災を免れたため」と言われていますが、他にも場所はあったのでは?と思うのです。 この年の3月31日、教育基本法・学校教育法の公布、4月1日から6・3制のスタート(国民学校が小学校と改称。新制中学の発足)、5月3日は憲法が施行された日です。 日教組大会の1週間前の6月1日には、片山哲内閣(初の社会党内閣)が成立、3日には文部省が学校儀式での「宮城遥拝・万歳停止」を通達しました。 今でもよく「バンザイ」をすることがありますが、「バンザイ」は戦前まで「天皇陛下万歳」だったのです。戦後、ドイツではナチ式敬礼を法律で禁止しましたが、日本での「バンザイ」は…。とはいえ、「君が代・日の丸」で頑張っている学校でも、さすがに先の「停止通達」は今日まで生きているようで…。 でもでもそのうちに、「万歳三唱」が式次第に挿入され、校長センセーが「卒業バンザ~イ!」なんてやり始めたりして(笑)。 ■ 2月14日といえば…
世間的にはバレンタインデーですが、実はもうひとつ、忘れてはならないことがあります。日本の運命を変えそうな大きな出来事だったのですが、なぜか歴史年表などにはあまり出てきません。ただし今後「愛国心」を教える際には重要な事件になりそうなので、日本史教科書にも登場し、「重要語句」になるかもしれません(?)。 1945年2月14日、つまり敗戦の年ですが、元首相の近衛文麿が天皇に「上奏文」を出したのです。この上奏文で近衛は、「敗戦はもはや必至なり」とし、さらに「敗戦だけならば国体上はそれほど憂慮すべき状態ではないが、(略)国体護持の建前からもっとも憂慮すべきことは、敗戦よりも、敗戦にともなって起こりうる共産革命です」と述べました。国体とは、国民体育大会ではなく(「なに言っ天皇!」と笑われそうですが)、天皇制のことですよ。 しかしそれに対して天皇は、「もう一度戦果をあげてからでないと…」と答えたとされています(「木戸幸一日記」など)。つまり、もうちょっと頑張って敵に痛い目をあわせてから、「講和」に持ち込もうという「戦略構想」といってもよいかと思われます。さすがは大元帥さま! ■ この頃連合軍は? この10日前の2月4日からは、ヤルタ会談(米英ソ)が開かれ、米ソ(ルーズベルトとスターリン)が極秘に密約を結んでいました(調印は偶然だが、紀元節の2月11日!)。もちろん、このような事実を当時の政府は知る由もありません。 その密約とは、1つはドイツ降伏後2~3ヵ月後にソ連が対日参戦すること、もう1つは参戦の条件として、千島列島や樺太南部などをソ連領に引き渡す、というものでした。アメリカはこの段階では、ソ連の参戦があれば、日本を降伏させることができると考えていました。その後、「心変わり」をして、原爆の力で日本を降伏へと導いたのです。原爆投下は、米ソ冷戦のまさに「狼煙」でした。 千島列島の返還(北方領土)は日ロ間の大きな外交課題(2月7日は北方領土の日だった)ですが、ロシア(当時はソ連)が領有権を主張している根拠の1つに、このヤルタ会談における「米ソ密約」があるのです。この密約から2ヵ月後にルーズベルトが死去(4月12日)しますが、次の大統領トルーマンさえ、就任時には密約の存在を知らなかったということです。 近衛の上奏から約1週間後の19日から、米軍の硫黄島上陸作戦が開始されました。 このような講釈は「受験日本史」にはまったく、役立たないし、関係ないかなあ? でも、近衛文麿、国体護持(くれぐれも誤字なきように!)、ヤルタ会談、ルーズベルト、スターリン、トルーマン、チャーチルなどは、重要語句かもしれないけど…。硫黄島は映画で話題になった!
■ キゲンは2600年!
前号で「紀元節」のことにふれましたので、その続編として紀元2600年の記念式典のことを書いてみます。神武天皇が即位してから2600年のお祝いが行われました。 この式典は1940年11月10日、「キュージョー」前広場で開催されました。時の近衛文麿首相はその祝辞の中で「東亜の安定」と「世界の平和」を説きました。本来は2月11日にすべきだったと思われますが、昭和天皇の即位式(1928=昭和3年)と同じ日をわざわざ選んだようです。さらに遡り、大正天皇の即位式(正しくは即位礼)も1915(大正4)年のこの日に実施しています(明治天皇の場合は不明)。 逆に下って、今の天皇のときは1990(平成2)年11月12日(祝日となった)に行われました。10日が土曜、11日が日曜なので、連休とするため12日にしたのではないかと思います。個人的にはこの日、ボクは「出勤」しましたが…。 ■ 奉祝国民歌が歌われた ♪キンシ輝く日本の…で始まる「国民歌」が歌われました。実はボクはこれ、歌えちゃうのです。もちろん、40年ですから、生まれていませんけどね。その歌詞はこう続きます。 ♪栄えある光身に受けて/今こそ祝へこの朝(あした)/紀元は2600年/ああ1億の胸は鳴る 1億とありますが、40年10月実施の「国勢調査」によると、当時の人口は約7,311万人。 この式典には天皇以下皇族たちも出席し、ラヂオで実況中継されたそうですが、天皇のことば(勅語)のときは放送が中断されたとか。いわゆる「玉音」は、式典に列席した人たちだけしか聞けなかったことになります。ちょうどこの頃、サントリー(当時は寿屋)からウイスキーの「サントリーオールド」(通称、ダルマ)が発売されたことを「新発見」しました(昔はカクもシロも飲めず、レッドが多かったのでその影響で「赤化」したのかも?)。 さて、キンシといっても「禁止」ではありません。キンシとは「金鵄」と書き、金色の鵄(とび)のことです。神武天皇が東征したとき、天皇の弓の先にとまった金色の鵄からきています。 式典に向けた大政翼賛会ポスターに「祝へ!元気に 朗らかに」とありましたが、式典終了後の15日には「祝ひ終った さあ働かう!」と変わりました。「働こ(か)う」ではなく「戦おう」であったことは、その後の歴史をみれば明らかです。 ■ 金鵄といえば金鵄勲章 この勲章は、軍人の武功に与えられたものです。この勲章が制定されたのは、1890(明治23)年2月11日の紀元節の当日。ちょうどこの日が紀元2550年でした。 この年の10月30日には教育勅語が出され(だから、1940年は教育勅語煥発50年でもあったのです)、さらにその前年(1889年)の2月11日には、いわゆる「明治憲法」が発布されました。ですから、2月11日は「明治憲法記念日」でもあるのです。 制定後は「武功」の程度に応じて年金(等級により金額が違う。当時、恩給と呼ばれていた)がもらえたのですが、それが1941年6月(英米対戦の半年前)からは「一時金」(これって「年金改革」?)となり、戦後の47年にようやく「キンシ」されました。 ■ 紀元2600年とゼロ戦 ゼロ戦、正確には零(れい)式艦上戦闘機ですが、中国戦線に出撃するようになったのがこの年から(37年より計画、39年に1号機完成)で、この零式の零は2600年に由来しています。ゼロ戦との呼び名は、米軍が「ゼロ・ファイター」と恐れたところから来ているのではないかと思います。 「世界最強の戦闘機」と呼ばれ、1万機以上が生産されたようですが、戦争末期には「特攻機」とされ、多くの若者とともに海の藻くずと化しました。若者たちを「強制死」へと追いやった特攻作戦の企画立案者は、「永久(A級)戦犯」ものでしょう。
■ 正しくは「記念の日」です!
今日(2月11日)は祝日。おかげで三連休となりましたが、この日を国民がみんなでお祝いできるかどうかとなると、ちと怪しい日なのです。昨年の言葉で言えば、「偽」の祝日と言ってもよいかもしれません。 まず正しくは、「建国記念の日」と呼びます。よく、途中の「の」を抜かす人がいますが、これは大きな誤りです。10年ほど前、ある社会科教員が出席簿に「の抜き」で表示していたので、「違うよ」(よけいなお節介ですが)と言ったところ、ご本人曰く、「今までずっと建国記念日だと思っていた」とのこと。社会科教員(ボクより一回り下くらいの年齢)でさえ知らないのですから、一般の人たちが混乱するのも無理からぬことです。 ■ 戦前は「紀元節」と呼ばれた 2月11日は、戦前において「紀元節」と呼ばれ、1873(明治7)年以来の「祭日」でした。「日本書紀」に記された神武天皇即位をこの日とし、「紀元節」と定めたのです。 戦前・戦中においてこの日は、「天長節」(天皇の誕生日)と並び重要な「祭日」でしたが、1948年7月に公布・施行された「祝日法」により、「紀元節」は「神武天皇祭」(4月3日)や「神嘗祭」(10月17日)とともに姿を消しました。ですから、48年2月11日が最後の「紀元節」だったということになります。 ■ 体育の日、敬老の日とともに それから2年余の51年3月、吉田茂首相(当時、麻生太郎議員はその孫になる)は早くも「紀元節」の復活を表明したのです。57年以降、何回も議員立法により法案が上程されましたが、いずれも廃案となりました。 66年3月、佐藤栄作首相のとき、祝日法改正案が上程され、6月25日に公布となりました。偶然ですが、16年前のこの日は、朝鮮戦争が勃発した日です。しかし、建国記念の日は今も「祝日法」を見ると「政令で定める日」とあるように、この時点では決められず、審議会を設け、そこで2月11日(戦前の紀元節の日)に決めたのです。 2年前の10月に東京オリンピックが開かれたことを受け、その開会式が行われた10月10日を「体育の日」とし、さらに「敬老の日」(9月15日)と3つをセットにした法案だったのです(今日、体育・敬老の日は、ハッピーマンデーの創出のため、体育が第2、敬老が第3月曜に移動)。一挙に「祝日」が3日も増えるのですから、関心はそちらに向きますが、本当の狙いは「紀元節」の復活だったのです。67年から2月11日は「祝日」となり、学校などは休みになりました。 ■ 「紀元節」とは? 先ほど「紀元節」の説明を簡単にしましたが、ではこの神武天皇は実在したかというと、架空の人物なのです。「日本書紀」によれば、紀元前660年に即位し、この国を治めたというのですが、歴史学上の「定説」ではありませんから。 このことからも、2月11日を「建国記念日」と「の抜き」での表記はゼッタイにできないのです。たとえば「憲法記念日」と言えば、憲法が施行されたその日をさします。「の」がつけば、その日でなくてもよいのです。 祝日法には「建国をしのび、国を愛する心を養う」とあります。すでに40年以上前に作られた法律ですが、しっかりと「国を愛する心」=愛国心が期待されています。改正教育基本法では「態度」が求められています(第2条の5)が、ずっと昔から2月11日に休みと引き換えに「愛する心」を求められていたのです。「建国をしのび」とありますが、必ずしも「神武建国」を指しているわけではありません。 < 前のページ次のページ >
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